2015年。「私たちのハァハァ」製作委員会。 物語のモチーフになっているクリープハイプの音楽にのれなかった、好きになれなかった、それがこの映画に違和感を感じた最大の理由だった。
松居大悟監督・脚本。
POVを使ったホラー映画は日本でも数多く作られているが、青春映画でもついに、『戦慄怪奇ファイル コワすぎ』シリーズに匹敵する傑作が登場した。
『VHS ファイナル・インパクト』にがっかりさせられていただけに、久しぶりにPOV形式の映画で感動する、という経験をすることが出来た。
見ようと思ったきっかけは、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭での大森一樹監督が「少なからず衝撃を受けた」というコメントを寄せていたことだった。
『ヒポクラテスたち』を作った巨匠がニヤニヤしながらも敗北感に打ちひしがれている姿が眼に浮かんだ。
青春映画の傑作は常にそれまであったものを古臭いもの、時代遅れなものとして排除することで更新されてきた。この映画で新しい更新がなされたに違いない、そう思うと期待が高まった。
しかし、面白い映画だったが、思ったほどではなかった。
良くも悪くも非常に荒っぽい作品で、ドキュメンタリー映画とフィクション映画との境目をあいまいにしようとする試みがなされているが、4名の出演者が全員アマチュアだったら、もっとすごい映画になっていたのかもしれない。
4名の出演者のうち、1名はプロの俳優で、1名はシンガーソングライターとして活動中、1名はネットメディアの有名人で現役の高校生で彼女(大関れいか)を知らない者はほとんどいないくらいの存在らしい。
3名は演じることを経験済みであることから、映画を作品として成立させようとする意識的な努力が垣間見えて、しかもプロの俳優以外の演技は相当にレベルが低いので、こんな場面やせりふは必要なかったなと思われる所が時々見えてくる。
問題は残りの1名、オーディションで選ばれたというほぼ素人の新人、真山朔の存在だった。最も長い時間カメラに映っていて、便宜上は主役扱いのようにも取り扱われているこの17歳の女性の、せりふの全部がアドリブではないのかと思われる、脚本としては全くダメで考えなしにものを言っているようにしか見えない存在がこの映画を高い所へレベルアップさせていると思える。
この先女優になる気があるのかどうかも不明な、考えるより先に何か言ってしまう無軌道でアナーキーにさえ映る本物の女子高生の存在が、この映画がドキュメンタリーでもフィクションでもあり得る可能性を感じさせ、どっちでもかまわないと思った。
とてつもない傑作に成り得た可能性を秘めた失敗作、それが『私たちのハァハァ』だったのかもしれない。
公式サイト(日本)
女子高生がクリープハイプに熱狂するということは、現実に多少は存在するとしても、リアリティに乏しく映るのが現在の情況のような気がする。
それよりは女性だけのバンド、「ゆゆん」に熱狂するという設定のほうがリアルなような気がする。
★ 『私たちのハァハァ』
★ 『人生はローリングストーン』
2015年。アメリカ。"The End Of The Tours".
ジェームズ・ポンソルト監督。デヴィッド・リプスキー原作。
ローリング・ストーン誌の記者で、無名の小説家でもあるデヴィッド・リプスキー(ジェシー・アイゼンバーグ)は、若者の間でカリスマ的な人気を誇る気鋭の人気作家、デヴィッド・フォスター・ウォレス(ジェイソン・シーゲル)の出版記念ツアーに同行取材をする。
その5日間の同行取材時の会話を録音テープを元に再現したドラマ。
なぜこんな地味なドラマに需要があるのかというと、日本では全く無名ながら、デヴィッド・フォスター・ウォレスという作家はアメリカでは文学に関心のある人なら必ず一度は手にする"Infinite Jest"という分厚い著作でトマス・ピンチョン以降の最も重要な作家とみなされており、人々の関心を集める人物であるから、ということらしい。
日本では初期の作品が翻訳されているだけで、その後の代表作は採算が合わないために未翻訳のままだが、文系大学生の部屋には必ずこの作家の本が転がっているというくらいにメジャーな存在らしい。Googleで検索すると、米語の読み書きが出来る人たちがちょこちょことエッセイや講演記録を訳していて、興味深い。
特に2005年にケニヨン大学で卒業生を前に行ったスピーチには感動した。同じ年のスティーヴ・ジョブスのスピーチよりもはるかに素晴らしい。リベラルアーツ教育の重要性を語っているのだが、実感がこもった言葉で心に響く。
この作品は、デヴィッド・リプスキーのもとへデヴィッド・フォスター・ウォレスが自殺したが何か知らないか、という連絡が届く場面から始まる。「そんな馬鹿な、あり得ないよ。きっとどこかの大学生のいたずらだろう。」と言うリプスキーだったが、どうやら自殺は本当らしいと知り、彼と過ごした5日間のことを回想する。
IMDb
この再現ドラマを見ていると、デヴィッド・フォスター・ウォレスという作家が自殺という選択をした(2008年に46歳で逝去)ことはショッキングな出来事だったことが何となく理解できる。資本主義社会で生活することの意味を考え続けた人物で、多くの人の考えの深い部分に影響を与えていたようだ。
物語は、偉大な作品の著者には非凡な何かがあるはずだと嫉妬や羨望の想いも含めて思い込んでいるリプスキーと、前衛的で難解な作風なのに通俗的なテレビドラマやアクション映画を愛するD・F・ウォレスとのちぐはぐで気まずいやりとりを痛々しく描き出す。
ジェシー・アイゼンバーグとジェイソン・シーゲルの二人以外には数人しか出てこない旅行の映画でロードムービーだが、風景よりも二人の顔が映っている時間が多い。会話が中心なので仕方がないが台詞の量も多く、二人の俳優も苦労したに違いない。D・F・ウォレスの元カノ役のアンナ・クラムスキーという女優がなかなか良い。
最後はセンチメンタルな感じで終わってしまったが、デヴィッド・フォスター・ウォレスという作家の存在を知ることが出来た点で有意義な作品だった。
★ 『ペーパータウン』
2015年。アメリカ。"Paper Towns". ガンで亡くなった親族の想いを継承し医学部に入ってガン専門医になることを目指す高校生クエンティン(ナット・ウルフ)、『さよならを待つふたりのために』の周辺にいた人物っぽい設定がつながりを感じさせるが、ナット・ウルフは『きっと星のせいじゃない』で最も印象深いキャラクターだったアイザックを演じていた人物である。
ジェイク・シュライアー監督。ジョン・グリーン原作。
アメリカの地図製作会社が違法コピーを防ぐために任意の一点に実在しない架空の町を作った。その存在しない町のことをペーパータウンと呼ぶらしい。
ニューヨークの北にあるアグローというペーパータウンに行方不明になった女友だちがいるに違いないと思い込んだ高校生が自動車での冒険旅行に出かける物語。
『さよならを待つふたりのために』が大ヒット(日本国内では小ヒット)した勢いで作られたらしき、ジョン・グリーン原作小説の映画化作品で、これはミステリーの方法を使ってあり興味深いが、アメリカ国内では期待したほどのヒットにはならず、そのせいか日本国内では劇場公開なし、ネット配信のみとなっている。
主に18歳前後をターゲットにするヤングアダルト小説の映画化作品にしては結末の味が苦すぎることがヒットしなかった理由なのは明白だが、「奇跡は誰の身にも起こり得る」のではなく、「人生に奇跡など決して訪れない」ことが主題の映画は夢見がちな18歳の若者には酷すぎたのかも知れない。
IMDb
彼には物心ついたころから恋していた幼なじみ、マーゴ(カーラ・デルヴィーニュ)という少女がいたが、学園内カースト最下層のクエンティンと学園のトップに君臨して誰もが恋い焦がれているマーゴとの接点はとっくに失われていた。
ある夜、突然彼の部屋を訪れたマーゴに、生まれて初めての大冒険となる手伝いをやらされたクエンティンだったが、マーゴはその夜を境に街から姿を消してしまう。
マーゴの両親はいつもの家出だとみなして真剣に探そうともしないが、クエンティンはいくつかの手がかり、ウディ・ガスリーのレコードやウォルト・ホイットマンの詩集などから、「私を探して」というメッセージを読み取り、オタク仲間の友人たちと捜索活動を開始する。
捜索の過程でマーゴの友人だった学園内トップ集団のゴージャスな女の子と仲良くなったりしながら、クエンティンはマーゴがすでに死んでいる可能性に思い当たる。マーゴはクエンティンに彼女の死体の第一発見者になってもらいたいのかも知れない。
物語は前半でマーゴがいかにとびぬけた存在であったかを示すエピソードを並べて、学園内の男子が共有していたイメージ、大胆で知性に溢れた美しい女性マーゴを描写するが、次第に当のマーゴ自身がそのイメージに苦しめられていたことが判明してくる。
物語の終わりはマーゴのイメージの破壊作業で、ロマンチックさの欠片もなくなるので、主人公クエンティンが自分たちの生活と地続きにつながっている感覚を味わえるが、映画にファンタジーを求める人々にとっては歓迎できない終わり方なのだろう。
マーゴを演じたカーラ・デルヴィーニュは回想場面でときどき出てくるだけなのでより効果的に神秘的で実在感もあった。この先も生きていけばマーゴは画家やシンガーソングライター、詩人、ブロードウェイのスターなどに成り得ているだろう。何となくジョニ・ミッチェルの若いころはこんな感じだったに違いない、と思った。
★ 『ビヨンド・クルーレス』
2014年。イギリス。"BEYOND CLUELESS".
チャーリー・ライン監督・脚本・編集。フェアルザ・バルク=ナレーション。
1990年代後半から2000年代前半にかけて大量に制作された学園映画についてのエッセイを映画にしたような作品で、当時は同世代の若者向けに制作された取るに足らないお子様向け作品だとみなされて、アメリカ本国ではまともに批評する対象だとはみなされていなかったようだ。日本でもその過半数がDVDストレートで劇場公開なしの扱いだったことから同様で、一部の物好きが愛好している状態だった。英国でも同じようなことだったようで、アメリカの1970年代のソウル・ミュージックを聴くのはイギリス人と日本人だけだという現象とよく似ている。
学園映画といえば、リンジー・ローハンの『ミーン・ガールズ』や、『アメリカン・パイ』シリーズ、キルスティン・ダンストの『チアーズ!』、この作品のタイトルにも使われているアリシア・シルヴァーストーンの『クルーレス』などは日本でもかなり知名度は高かったが、この映画はナレーターに『ザ・クラフト』のフェアルザ・バルクを起用していることからも想像できる通りに、学園ホラー映画や、一応学園が舞台だがアート系の映画や、変な映画にも重点が置かれていて、監督の趣味・嗜好が強く反映されている。結果的に日本未公開の映画がかなりの割合を占めていて、見たくても見れない映画についての場面は想像するしかない。
YouTubeで好きなジャンルの映画について名場面を無許可で編集したようなアマチュアの動画を目にすることがあるが、それと大差ないような気がしないでもないが、それらと異なる点は監督の並外れた知識と、ジャンル映画への偏愛度が異常過ぎることだろうか。編集はかなり荒っぽくて、すぐれているとは言えないが、好きな映画が出てくると、「やっぱりそうか、この作品を好きな人は全世界に一定数存在するのだな。」とうれしくなって許せてしまう。
『ルールズ・オブ・アトラクション』の切なさを語るのではなく、単に無茶苦茶な映画として取り扱われていたことに少し失望したものの、『アメリカン・ピーチパイ』や『恋は負けない』、『セイブド!』、『ケン・パーク KEN PARK』、『恋人にしてはいけない男の愛し方』、『DEAR WENDY ディア・ウェンディ』、『エクセス・バゲッジ/シュガーな気持ち』など知る人ぞ知る作品を取り上げていることには感動した。
一方で『ファイナル・デスティネーション』シリーズや、『ブレアウィッチ・プロジェクト』、『キャビン・フィーバー』、等はちょっと場違いな感じがあり、『ゴースト・ワールド』や『エレファント』、『パラサイト』はギリギリのラインだったような気がする。
この映画を楽しむためには、『ハイスクールU.S.A』と『ヤング・アダルトU.S.A』の2冊を楽しく読んだ経歴が必要かもしれない。
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★ 『テキサスタワー』
2016年。アメリカ。"TOWER".
キース・メイトランド監督・製作・美術。
1966年8月にテキサス大学オースティン校で発生した銃乱射事件に巻き込まれた人々のその後を追ったドキュメンタリー映画。事件は何度も映画化やテレビドラマ化されたり、スティーヴン・キングの『ハイスクール・パニック』の題材になったりして有名だが、世界中の人々に与えた文化的ショックの度合は事件そのものがかすんで見えるほど大きい。
しかし、この映画は犯人にはほとんど触れることなく、ロトスコープ(実写映像をアニメ化したもの)と当時のニュース映像やフィルム、それに現在の映像を使って、現在進行形で起こる事件として物語られている。
見ている者は1966年8月のテキサス大学構内に自分が居合わせてしまったかのような恐怖を経験することになる。ロトスコープを使った映画には『スキャナー・ダークリー』等があったが、ロトスコープはこの映画『テキサスタワー』のために発明したと言われてもいいほどに効果的で、リアルタイムの恐怖心を観客に与えることに成功している。
何が起こっているのかわからないが、広場にいるのは危険だという混乱した状態の中でそこにいた人々の物語が語られていく。
恋人とおなかの中に赤ん坊がいる女性が、一瞬にして恋人と赤ん坊を失ってしまう。その女性クレアは自らも銃弾を受けて広場に倒れてしまう。傍らには恋人の死体が横たわっている、しかし誰も助けに来ない。助けに向かえばその人も銃弾を浴びるからだ。
そのクレアが現在も健在であり、彼女が言う、「犯人を憎むことなんて出来ないわ、私は彼を許します。」という言葉が衝撃だった。何らかの宗教的な背景があるにせよ、見ているこちら側の汚れた心を浄化してくれるような一言だった。
ある女性が回想する、「あれは本当の勇気が試される瞬間だった、そして私は何もできずにただ隠れていたの。」という後悔の言葉には、事件から50年が経過して、このタイミングを逃したら発言する機会すら失ってしまう、これを映画にしてくれてありがとうという感謝の想いが全ての方向に向けて発せられており、これを見ている私も同じ想いを共有できたことがうれしかった。
おびえながらも勇気を振り絞ってクレアの救出に向かった黒メガネの青年は、「あの時の私はバカみたいに黒ずくめの服を着ていた。」と語る。ビートニクかぶれの青年だったのだろうが、現在では彼にとってビートニクという概念はもはや必要なくなったということを示している。そんな細部が妙に生々しく、現在進行形の事件だという感覚を見ているこちら側に与える。
陰惨な事件を題材にしたドキュメンタリー映画だったが、なぜか幸福な感情の余韻に浸ることのできる奇妙な作品だった。おそらく10年後だったらもう事件の関係者で存命している人は少数になってしまうという最高のタイミングが映画に幸福感をもたらしているのかも知れない。
Netflixが日本に上陸して、これまで日本には輸入されなかったインデペンデント資本のドキュメンタリー映画やマイナーな映画が数多くみられるようになったせいで、毎日の日課がNetflixの新作をチェックするほどに依存の度合いが高まっていることには危機感が少しある。
★ 『ぼくとアールと彼女のさよなら』
2015年。アメリカ。"ME AND EARL AND THE DYING GIRL".
アルフォンソ・ゴメス=レホン監督。ブライアン・イーノ、ニコ・マーリー音楽。
映画オタクの少年二人と白血病で死につつある少女との半年くらいの交流を描いたヤングアダルト小説(邦訳なし)を原作にした物語。フォックス・サーチライト版の『世界の中心で愛を叫ぶ』みたいな雰囲気もある。
しかし、この作品の面白いところはロマンティックになったりセンチメンタルになったりするのを極力排除しようと努力している点にある。主人公役のトーマス・マンのすっとぼけた独白がそれに貢献している。そして驚くべき点は映画を見ることは人生に何の役にも立たないどころか百害あって一利なしという隠された主題の存在である。実際に物語の上では白血病で瀕死の少女を映画が殺す結果をもたらしてしまっている。おそらく原作は平凡なものだったのだろうが、監督の映画への愛憎が奇妙な不協和音を物語に与えているような印象がある。
男二人に女ひとりという設定から連想されうる恋愛の要素は完全にゼロなのもすごい。約半年間の友情と別れの物語だったが、エモーショナルな演出を排除した結果、あっさりし過ぎな物語になってしまっていると思う人が多いのかも知れないが、このくらいがちょうど良いように見える。主人公グレッグの友人で映画の共同製作者でもあるアール(RJ・サイラー)の出番が少なすぎてキャラクターが不鮮明で存在感が薄かったり、スクールカーストの描写が紋切り型過ぎる、もっと効率よくキャラクター描写が出来なかったのかと思うところが多々あるなど欠点の目立つ作品だが、嫌いにはなれない要素が多すぎる。
主人公のグレッグ(トーマス・マン)は自主映画製作が趣味で、古今東西のクラシック映画のパロディみたいな作品を大量に製作して自作のDVDパッケージに収納している。そのパロディ映画がちょこちょこ出てくるのが楽しい息抜きになっている。判別できた限りでは、ゴダールやコッポラやキューブリック、ベルイマン、ヴィスコンティ、カルト映画の『血を吸うカメラ』や『真夜中のカーボーイ』や『ミーン・ストリート』、『ブルー・ベルベット』、『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』などが数秒間登場する。グレッグのベッドの横にはトリュフォーの『大人はわかってくれない』のポスターが貼られていて、映画編集に使っているマックブック(WindowsNotePCだったかも知れない)の待ち受け画面にも『大人はわかってくれない』の撮影風景が使われている。優等生的な映画マニアという設定である。
グレッグが通っている映画マニア向けのDVDショップが現実にこういう店があったら通い詰めるだろうと思われる素晴らしさで、店内の雰囲気が1990年代にあちこちにあったアナログレコードの店に似ており、当時を懐かしく思い起こしたりした。
父親(ニック・オファーマン、何かの映画で見た顔だが思い出せない、大学教授らしい、若いころにロック好きでオールマン・ブラザーズバンドのグレッグ・オールマンの名前を息子に与えている)や高校の歴史教師(ジョン・バーンサルが怪演)の影響でグレッグがヴェルナー・ヘルツォークの映画ばかり見ているのもおかしい。ヴェンダースでもファスビンダーでもなくヘルツォークなのが2010年代のリアリティなのかも知れない。
もともと特に親しかったわけでもない白血病のレイチェル(オリヴィア・クック)と友だちになったグレッグは、クラスメイトの巨乳美女のマディソン(キャサリン・ヒューズ)の提案でレイチェルのための映画を作ることにする。グレッグはなぜかマディソンにプロムに誘われる。マディソンという女性は物語の冒頭から絡んできて原作では重要なキャラクターだったのかも知れないが、映画の上ではグレッグとの関係に謎が多く、省略されているのだろう。
プロムの日にタキシードを着てリムジンに乗ったグレッグはマディソンを迎えに行くのかと思ったら、レイチェルが入院している病院に到着する。余命数日と思われるレイチェルに編集作業中のラッシュを見せていると、レイチェルの容体が悪化してそのまま彼女は息絶える。
レイチェルが死んでからがグレッグの成長物語で、墓場の下からレイチェルが各方面へ送ったメッセージのおかげで無事に大学進学することになったグレッグは、生きている間は知らなかったレイチェルの豊かなパーソナリティを発見していく。ややセンチメンタルに描かれるそれらのエピソードはレイチェルとは映画そのものでもあったのだというロマンチックな物語になってしまっている。
センチメンタルとロマンチックに逆らうと冒頭で主人公が宣言しておきながらこれでは台無しではないか、と裏切られた気分になりそうな所をブライアン・イーノとニコ・マーリーの無機的な音楽がクールダウンさせてくれる。
映画は百害あって一利なし、しかしそれでも俺は映画が好きなんだ、みじめにむごたらしく死んでもかまわない、俺は映画を選ぶよ、というスタッフの魂の叫びが聞こえたような聞こえなかったような、ちょっときれいにまとめ過ぎた気はするものの、余韻を残さないぶつ切りの終わり方は気に入った。
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★ 『私が殺したリー・モーガン/私がモーガンと呼んだ男』
2016年。アメリカ/スウェーデン。"I CALLED HIM MORGAN".
カスパー・コリン監督・製作・脚本・編集。
Netflixで『私がモーガンと呼んだ男』というタイトルで配信されているが、全国で劇場公開もされていて、『私が殺したリー・モーガン』というタイトルになっている。
1972年2月18日土曜日、ニューヨークのジャズクラブで演奏中のトランぺッター、リー・モーガンが銃殺された。享年33歳。内縁の妻だったヘレンが持っていた拳銃によるものだった。なぜこんなことが起こってしまったのか、当時モーガンの周辺にいた人物で存命中の人々へのインタビュー映像と、ヘレンが1996年の死の1か月前に残した録音テープを基にリー・モーガンとヘレンの人生を検証しようとする作品。
作品はヘレンへのインタビュー音声を中心にしているため、彼女の人生にスポットライトが当たる形になっている。13歳で最初の子どもを出産し、14歳で2番目の子どもを出産、この時点で人生に幻滅したと語る。17歳で39歳の男と結婚したが男は間もなく溺死。19歳の時にニューヨークに出て、電話交換手をしていたが、料理が得意だったこともあり、近所の貧しい無名のミュージシャンの食事の世話をするようになり、彼女のアパートはミュージシャンの集会所と化す。そこに現れたのが自分の子どもと同じくらいの年頃のリー・モーガンだった。
モーガンは重度のヘロイン中毒で楽器や服や靴を麻薬を買うために売り払うほど困窮しており、ヘレンの前に現れた時も極寒の中コートも着ていなかった。心配したヘレンは、モーガンがコートを売り払ったという質屋にコートを買い戻しに行き、彼を更生施設に入院させ、やがてリー・モーガンの演奏の手配をするマネージャーになる。
当時を知る関係者がモーガン夫妻の仲の良さを語るが、何か違和感が残る。ヘレンは貧しかったはずだが、ニューヨークに出て一挙に金持ちになったのか、料理が得意だったとしても自宅がミュージシャンの集会所になるには跳躍地点である何かがあったはずだ、作品の中では誰も語らないが、ネットで”リー・モーガン”と検索すると情報が出てきた。要するにヘレンは麻薬売買にも関与するギャングの一員だったようだ。マイルス・デイヴィスに売春婦扱いされたことを恨んでいるらしく「あの不潔な男」と吐き捨てるように言うのが気の強さを物語るが、それに近い立ち位置の時期もあったのかも知れない。年代があいまいだが、ヘレンがニューヨークに出たのは第二次大戦前でリー・モーガンと出会う10年以上前だろう。ゲイやレズビアンの友人が多かったというから会話なしには生きられないタイプの女性だったのだろう。
生来の世話好きから童顔のリー・モーガンを放っておけなくなり、親身になる内におしどり夫婦になった。キャリア的にも身体的にも完全に死んだ状態だったモーガンをよみがえらせ、再び殺した女、ヘレン・モーガンという女性の奇妙で壮絶でもある経歴を残されたカセットテープの音声が語る。ニーナ・シモンの伝記映画でも聞き覚えのある、人生に過度に打ちのめされて開き直ったような老婦人の声だった。
このインタビューが録音された経緯も面白い。大学でアフロアメリカンの歴史を教えていた人物が受講生の中に自分より年上の女性がいるのを見つけ、話すうちに「私もジャズが好きよ、私の夫はミュージシャンだったのよ。」という言葉から「モーガンさん、あなたの夫というのはひょっとしてリー・モーガンではありませんか?」と尋ねるとそうだという。インタビューを申し込んだが考えておくわといったきり返事はなく、7年後にインタビューを受けても良いと言われ、彼女の家に出かける。時間が長くなったので「この続きをお願いしても良いですか?」と言って承諾してもらったが翌月に彼女が亡くなったので実現しないままに終わった。死期を悟ったヘレンの告解のようなものだったのだろう。出所したヘレンは最初の子どもと供に故郷に帰り、やがて熱心なキリスト教徒となり、料理の得意なおばさんとして周囲の人々の間で人気者だったという。罪を犯した人間の更生の物語としても興味深い。
ウェイン・ショーター(年齢の割に記憶力と元気が良すぎる)を中心に語られるリー・モーガンが18歳で颯爽とデビューした時の無敵な存在感は相当にすごかったのだろう。当時の最先端のポップ音楽でヒップホップだったのだな、ということが解る。ドラッグでダメになるのも猛速度で、脚光を浴びて間もなく駆け下りている。しかし、この作品ではリー・モーガンは脇役に過ぎず、彼を射殺したヘレン・モーガンが主役である。1970年代初頭のテレビ番組「SOUL」での演奏の時のカラー映像がリー・モーガンの姿を生々しく鮮明に映していて、そこでの彼は若く自信に満ちているが、その時が晩年の姿でもあるというのは不思議だった。ジャズ・ミュージシャンは若死にするという固定観念があったが、80歳を過ぎたような現在でも元気な人が多いのも意外な気がした。
ジャズを真剣に聴いた記憶はあまりないが、親しみを感じるのはフィルムノワールの影響だろう。ノワールに限らず映画とジャズとは相性が良いような感じがする。
リー・モーガンと言えば「サイドワインダー」がヒットしたことぐらいしか知らない門外漢で、学生時代、1990年前後の京都市内のジャズ喫茶でリー・モーガンのレコードがかけられていた記憶はない。デヴィッド・マレイやオーネット・コールマン、チャールズ・ミンガスが多いフリージャズ寄りの今から想えば偏った選曲の店だった。「蝶類図鑑」という店で内は真っ暗だった。JBLのスピーカーで会話が全くできない大音量だった。アルバイトの男性や女性に飲み物を注文するとき声が聞こえないので手話のような身振り手振りで注文していたことを憶えている。
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★ 『ビリー・リンの永遠の一日』
2016年。アメリカ。"Billy Lynn's Long Time Walk".
アン・リー監督。ベン・ファウンテン原作。
全米批評家協会賞を受賞した話題の小説をアン・リーが監督して映画化、しかし理由は色々あるようだが劇場公開なし、DVDとネット配信のみの公開になっている。
この映画の予告編を見たときに、「何だこれは?ダンスしながら歌うglee世代のための戦争映画なのか?」という奇妙な印象を持ったが、舞台がアメリカン・フットボールのハーフタイム・ショーというアメリカ合衆国で最も華やかなエンターテインメントの舞台での一日の出来事なのでそうなっている。
フォックスニュースのカメラに偶然映った救出行動が本国でメディアの話題となり、イラク戦争の英雄として2週間の休暇をもらったビリー・リン(ジョー・アルウィン)は、仲間のブラボー分隊とともに一時帰国して戦意高揚のためのイベント出演をする。実際は休暇ではなく軍部の宣伝活動に利用されただけのことだった。そのクライマックスがハーフタイム・ショーで、当時はデスティニーズ・チャイルドの一員だったビヨンセのパフォーマンスを中心にショーが構成されている。
貧しい地方出身でお金も学歴もない19歳の若者ビリー・リンの戦争に行くしかなかった家庭環境が回想形式でショーの合間にはさみ込まれる。クリント・イーストウッドの『アメリカン・スナイパー』や『父親たちの星条旗』とも共通する帰還兵の物語だが、ビリー・リンたちはショーが終われば再び飛行機でイラクへすぐに戻らなければならない現役の兵士であり、再び生きて帰れる可能性はそう高くはなさそうなのが悲劇的とまではいかないが、哀しみがつきまとっている。キャサリン・ビグローの『ハートロッカー』を青春ドラマとして再構成し、より繊細に味わい深く描きなおしたような印象がある。
『アメリカン・スナイパー』を見た時には感銘を受けたが、この作品はそれ以上だった。ショックはないが、主人公たちと同様に、表面的な賛辞ばかりで誰も本当には自分たちを尊敬していないどころか、興味さえ持っていないことが明らかな中でのイベント活動にうんざりしながら、これが終われば再び地獄が待っている、生きて故郷に帰っても、「バーガーキングで働くしかない」という貧困を生きるしかない、どこにも逃げ場はないというアメリカ合衆国の現実を一緒に経験したかのような感覚に観客を捉えさせることに成功している。これは2004年が舞台だが、現在はさらにひどくなっている情況の中でこの映画を見るのは辛いと同時に生きる励ましをも受け取ることが出来る。ある特定の人々、例えば17歳で映画を見始めた若者にとっては、心に響く、というより魂を揺さぶられる映画となる可能性がある。その人々は「私はビリー・リンだ。」と考えたに違いない。
イラク兵に銃撃され捕らえられそうになったシュルーム軍曹(ヴィン・ディーゼル)を救出に向かい、偶然出会ったイラク兵を格闘の末に刺し殺したビリーだったが、シュルーム軍曹はすでに息絶えていた。テレビカメラに映ったビリーの一連の行動がテレビの報道番組をきっかけにメディア全体の話題となり、知らぬ間にビリーはメディアから英雄扱いをされる。人生で最悪の出来事を英雄扱いされることに違和感を憶えるビリーだったが、シュルームが最も信頼する青年だったビリーはそれを冷静に受け止めて、シュルームの遺体とともに飛行機でハリウッドへの短い旅に出ることにする。シュルームが信頼を寄せていたのは他の兵士がクズ過ぎたためで、ビリーもクズの一人だが比較的ましなクズだという点もきっちりと残酷に描かれている所もリアル過ぎて美しいとさえ見えてくる。
戦闘経験の乏しい若者が現実の戦争に巻き込まれると実際はどんな反応をしてしまうのかが生々しく描き出されていて、これまで見てきた戦争映画のどれよりもリアルに感じた。チームワークも不十分な中で何をすれば良いのかが判断不可能な状態の描写が見事だった。ビリーも尊敬するシュルーム軍曹が撃たれたことにショックを受けて無我夢中で動いたに過ぎない。威力の強い銃で撃たれた人間はバラバラになるのではなく、ピンク色の霧のようになって消滅するという描写は惨たらしいが新鮮だった。ブラボー分隊の活躍をなぜか女優のヒラリー・スワンク主演で映画化しようと画策するマネージャーのアルバート(クリス・タッカー)の適当なことをしゃべり続けるキャラクターが面白かった。ビリーと姉のキャサリン(クリステン・スチュワート)との姉弟愛の美しさも素晴らしい。キャサリンは医者からPTSDの診断が出れば現場復帰は回避できる、弟に死んでもらっては困ると言う。交通事故で全身と顔に傷跡のあるキャサリンは身体よりも心に深い傷を抱えながら生きており、クズ人間だらけの家族の中でビリーだけが頼りなのだ。
数万人が集まったフットボール会場の誰もブラボー分隊を尊敬していない感じが細やかに描き出されて、アメリカて最低な国だな、と思いつつもハーフタイム・ショーの美しさにはうっとりさせられてしまうという不安定なクライマックスがビヨンセ(そっくりさんなので顔は映らない)を中心にしたパフォーマンスで映しだされる場面が見せ場となっている。会場のオーナー(スティーヴ・マーティン)にビリーが最後に放った痛烈な発言は、ハリウッド映画そのものを否定しかねない危険で本物の言葉だった。政治的に偏った物語になりそうな題材だが、イラク戦争批判の映画ではない、という巧妙な物語の組み立て方もあり、青春映画の傑作としてすんなりと見ることが出来た。
キリスト教原理主義者の美しいチアリーダー、フェイゾン(マケンジー・リー)との恋に発展しそうで会話が一応成立していながら、実際はコミュニケーション不可能なむなしい感じも面白かった。
この作品のDVDは4K/ULTRA HDという最高画質で鑑賞できる仕様になっているが、高級な再生装置を持っていないと無理なのでいつの日にか、出来れば劇場に近い環境で鑑賞したい作品となった。DVDとネット配信との関係が急速に変化している事態に直面している。レコードコレクターズという高齢者向けの音楽雑誌があるが、あの雑誌の読者層はCDに気兼ねなく5万円くらい払える人々が中心であり、映画の記録メディアの業界もその方向へ確実に移行しつつある。
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★ 『バンド・エイド』
2017年。アメリカ。"BAND AID".
ゾーイ・リスタ=ジョーンズ監督・脚本・製作・主演。
LAに暮らす30歳くらいの夫婦、グラフィックデザイナーの夫ベン(アダム・バリー)は最近仕事が少なくほぼ失業状態である。求めれば仕事は見つかるはずだが、夫が営業努力を怠っていると妻アンナは感じており、いら立っている。妻は作家志望だが、現状の家計は妻がウーバー・ドライバーの収入で支えている。
日本でもマクドナルドの配達員募集の広告などで見かけるようになったウーバー(Uber)という自家用車を使って誰でも運送業を始められる仕組みだが、ゾーイ・リスタ(以下ZLJと省略)がやっているようなタクシー業は日本では制限されているので国内での普及は難しそうだ。
ZLJがプリウスで客を乗せる場面に有名俳優(といってもコリン・ハンクス等だが)が友情出演して少しの笑いどころを提供するのがアクセントになっている。ウーバー・ドライバーでどれくらい収入があるのか、と思ったら平均年収は600万円前後とネットに書いてあったが、人の行き来が多いLAだともっと高額になるのかも知れない。日本の賃金水準からみるとけっこう稼いでいるように感じるがLAだときついのかも知れない。実際にZLJと夫の暮らしは明らかにアメリカの下層階級の貧しく質素なものとして描かれている。
貧しさやその他の色々(流産など)な要因が重なって結婚生活の危機が訪れ、夫婦は打開策としてバンド活動を始める。悩みごとやつらいことを音楽に昇華してうまくいくかに思われたが、人生はそんなに単純なものではなかった、という苦い味のコメディ映画。
新婚から数年経過して、互いに相手に対する失望や幻滅を抱えながら感情のもつれから口論したり相手を無視したりするエピソードが連続する地味で辛いドラマなのだが、ZLJが自分の持っているすべてをさらけ出して勝負に出た、という切実さはあった。ZLJの持ち味のチャーミングなパーソナリティが救いとなって最後までどうなることかと心配しながら見ることが出来た。夫役のアダム・バリーの穏やかで暖かみのある表情も良かった。
ドラマー役のフレッド・アーミセンのふざけたキャラクターや、ZLJの母親役の女優の含蓄に富んだ言葉、ZLJの友人の社会的に成功した女性たちへのZLJの嫉妬や妬みからのヒステリーなど、いろいろ面白いところはあった。LAの30歳前後の夫婦の決して楽ではない暮らしぶりが生々しく物語にされているところが一番新鮮に感じた点だった。
ZLJが小さなライブ会場でギターだけで歌う" Work in progress/Desire "(未完成/欲望)というオリジナルの曲はなかなかに心にしみる良い曲だった、ような気がした。
『29歳からの恋とセックス』で、ヒロインのグレタ・ガーウィグの友人役で出演していて製作総指揮と脚本も手掛けており、妙に気になる人物だったZLJがほとんど自分ひとりで作り上げた夫婦ドラマ。
ZLJはこれまでに夫のダリル・ウェインと共同で製作・脚本・演出を担当した『遺伝子組み換え食品』という社会派スリラー映画と、『29歳からの恋とセックス』という恋愛コメディを発表している。グレタ・ガーウィグとの接点からマンブルコア派の映画作家なのかと思ったらそういうわけでもなさそうで、そもそもマンブルコア派の映画とは何なのか良くわかっていないので判断不可能なのだった。(登場人物の台詞が不明瞭で何を言っているのかわからない、物語がないに等しい、起伏に乏しくオチもない、ダラダラしている等の批判があるが、それらはヌーベルヴァーグやニューヨーク・インディーズや、ジョン・カサヴェテスや吉田喜重の映画に関してさんざん言われてきたことで何の意味も説得力もない、それなのでマンブルコアはやっぱり謎のままなのだった。)
明らかなマンブルコア映画を見たのは1本だけ、『ドリンキング・バディーズ 飲み友以上、恋人未満の甘い方程式』というアナ・ケンドリックやジェイク・ジョンソンが出た恋愛喜劇で、あれはエリック・ロメールの『友だちの恋人』を見た時と同じくらいに感銘を受けた、マンブルコア映画運動がこれほどに素晴らしいのなら期待したい、特にジョー・スワンバーグには要注目だ、と思っていたら、その後はマンブルコアに影響を受けた、厳密にはマンブルコアの外部にある『フランシス・ハ』が出たきりで、ほとんどのマンブルコア映画は日本未公開のままに放置されている。そのうちにネット配信で見ることが出来るようになるかも知れない。
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★ 『その場所に女ありて』
1962年。東宝。”Sono Basho ni Onna Arite",
鈴木英夫監督・脚本。
大手広告代理店の企画営業を担当する律子(司葉子)がライバル会社とのし烈な競争にほんろうされながら過ごした一年間の愛と人生を描いた物語。1962年という今から56年前の時期にこんな映画が製作されていたということが、驚きだった。
律子を取り巻く女性たちの物語が、広告会社という当時女性を一人前の人間扱いしているとは思われない環境の中で奮闘する姿を、時にはクールに、時に暖かいまなざしで描き出す鈴木監督の演出と脚本は素晴らしい。早すぎたフェミニストだったのかも知れない。
男勝りで勝気なリーダー格の祐子(大塚道子)、ダメ男のイケメンにばかり心奪われるコマンチことミチコ(水野久美)、社員相手に高利の金貸しを営むヒサエ(原千佐子)など個性的な女性たちの群像劇が脇のエピソードとして語られる。
物語は西銀広告の大きなプロジェクトを任された律子と、それを手段を選ばずに奪い取ろうと画策するライバル社、大通広告の坂井(宝田明)との闘争の物語となっている。
戦いの中で坂井はいつの間にか、律子に恋してしまっていた。律子もまた坂井に心を乱される。しかし、目的のためには手段を選ばない広告会社の社員である坂井は、ある卑劣な手段でプロジェクトを奪い取ろうと企てる。
60年近く前の映画でありながら、日本の会社がやっていることには昔も今も何も変化がなかったという失望と驚きが同時に訪れる。
クライマックスで、改心したかに見えた坂井(宝田明)が電話で律子(司葉子)にもう一度会ってくださいと懇願する。何の感情も現わさずに律子は、「街でバッタリ会ったら、またお酒でも飲みましょう。」と冷たく言い放つ。そして「さようなら。」とつぶやく。坂井が「えっ?何とおっしゃいました?」と聞き返すと、「さようならと言ったのよ。」と言って電話を切る。このホラー映画も真っ青の戦慄の場面には背筋が凍る思いがした。二人は永遠にバッタリ会ったりすることはない、というヒロインの意思表示は強烈だった。女性の自立という概念もまだなかったと思われる時代にこんなすごいラストシーンを作り上げた鈴木英夫と司葉子との二人には完全にノックアウトされた気分だった。
山崎努が持ち前の嫌味でうさんくさいキャラクターで登場して物語に一波乱を引き起こす。浜村淳は意外に優秀な広告制作者役。律子の姉の森光子がダメな女を好演、森光子のヒモ亭主役で児玉清が登場するが背が高いだけで影が薄かった。
ロケーション撮影も多用されているので当時の東京の風景がたくさん見られるところも面白かった。信号待ちをする人々の様子や、ビルディングの並び、街の看板類、道路事情など、風景を眺めているだけでも新鮮な喜びがある作品だった。
"# me Too"運動が世界中を席巻しているニュースを見ているときに、ふと日本映画の名作とされているあれやこれやが、すでにアウトな存在になりつつあるような不安を感じた。小津安二郎の映画のあの場面やこの場面は"# me Too"の視点からみると完全にアウトではないのか、思えば原節子は小津映画を心底から嫌悪していたというエピソードが評伝で語られていたりもした。
人間としては最悪の差別主義者だったらしい溝口健二監督の映画には"# me too"に引っかかるようなシーンが思いつかないどころか、女性賛歌の側面ばかりが想い出されるのも不思議な気がする。
鈴木英夫という監督は近年再評価され始めた演出家で、他に山崎努主演の和製フィルム・ノワール『悪の階段』が面白かった。
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★ 『アメリカン・スリープオーバー』
2010年。アメリカ。"The Myth Of The American Sleepover".
デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督・脚本。
ホラー映画の『イット・フォローズ』が話題になって注目されたデヴィッド・ロバート・ミッチェル(以下DRMと略)がその前に作っていた実質的なデビュー作で、この作品は『イット・フォローズ』が話題になるちょっと前か同時期にすでにアメリカ映画マニアの批評家や新し物好きの人々の間で噂の作品だった。全国各地で小規模ながら自主上映のような形で何度も上映会が開かれてきており、カルト映画と化していた青春映画でもあった。ブルーレイも自主上映団体のクラウドファンディングで実現した、という経緯もあった。カルト映画という響きには何か心躍るものがあるが、実際に見てみると「まあ、こんなものかな。」とちょっとした幻滅を感じることもあった。
しかし、この『アメリカン・スリープオーバー』はカルト映画という言葉の期待以上のものを見せてくれた、ような気がする。
全部の場面が現代詩になりそうな画面に魅了される映画だったが、登場人物が多くて、ダラダラして特に驚くようなことは起こらない。しかし、21世紀の『アメリカン・グラフィティ』に成り得る可能性はあると思う。
『イット・フォローズ』はただ怖いだけではない何か心に引っかかるものがあって、これは一体何なのか、と考えを巡らせる機会を与えてくれる映画だったが、具体的にはよくわからない、何か奥深いものがありそうだ、といった程度の感想だった。
『アメリカン・スリープオーバー』と『イット・フォローズ』とを並べてみると、DRMは同じ物語を語っているのではないか、ということに気づく。『アメリカン・スリープオーバー』は青春映画の傑作だが、ただ若いというだけで光り輝く青春の物語とはちょっと違っている。青春期の切なさや胸がキュンとなる瞬間が繊細に捉えられてはいるものの、非常にクールな視点も同時に存在している。具体的には、観客はこの映画の登場人物の誰かになりたいとは決して思わないだろう、誰もあこがれの対象とならない登場人物だらけの青春映画だった。
若者でもない者がなぜ青春映画を見るのか、ということについての答えがこの映画にはあった。青春映画には人が生まれてから死ぬまでの物語の核心部分が凝縮されているような気がする、特にこの『アメリカン・スリープオーバー』にはそれを強く感じ取る、それで『イット・フォローズ』の奥深い感じがわかったような気にもなった。『イット・フォローズ』も「人はなぜ生まれて死んでいくのか?」という問いかけに満ちたホラー映画だったような気がする。
エンディングで流れるマグネチック・フィールズ(mgnetic fields)というバンドのビーチボーイズへの憧れに満ちた"The Saddest Story Ever Told”という曲が素晴らしい。歌詞の意味を知ると泣いてしまいそうになる。
有名な俳優は一人も出演しない、というより俳優ですらない人々が大部分を占める映画で、オーディションで選ばれた一般の少年少女が主要登場人物を務める。素晴らしいのは素人だらけの映画なのにそれが全く気にならないどころか、彼らがアマチュアだということに気づくことさえないまでに自然な演技や台詞を発している点で、長期間のワークショップが行われていたのかも知れない。
スリープオーバーとはお泊り会のことで、新学期前の少年たちや少女たちが誰かの家に泊まりにいく習慣らしく、パジャマパーティーと同じことだろうか。
出演している素人(数人だけプロの俳優もいる)の中に将来ブレイクする俳優になりそうな可能性を感じさせる人物も何人かいたが、IMDbを見ると、ほとんどはこれっきりで俳優活動とは縁を切った人々が多数を占めるようだった。
鼻ピアスでちょっと悪ぶった印象のぽっちゃりしたマギーと友人の眼鏡女子ベスがプール監視人の青年と語らうエピソード、スーパーマーケットで見かけた美人を探し求めて夜の街をさまようロブのエピソード、双子の美人姉妹の一人が自分に恋していたと妹から聞かされて双子のいる大学までドライブに出かけるスコットのエピソード、お泊り会の家の娘が自分の彼氏と浮気していたと知りささやかな復讐を企てるクラウディアのエピソードが前面に出ていたが、他にも数多くの登場人物の物語が入り混じってよく理解できていない所もあるので、いずれ見直してみたい。今月からnetflixで配信が始まっている。
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★ 『7 WISH/ セブン・ウィッシュ』
2017年。アメリカ。"WISH UPON".
ジョン・R・レオネッティ監督。
怪奇小説の『猿の手』を基にしたティーンエイジ・ホラー映画で、七つの願いが叶うオルゴールを手に入れた少女が破滅していくさまを描く。一見して金がかかっている映画だとわかる豪華な作りが他の低予算ホラー映画とは一線を画している。
エンドクレジットの丁寧で手間のかかった印象が好感度を高めている。しかし、ホラー映画としては全く怖くない、失笑するしかない恐怖シーンの数々、登場人物の性格が場面ごとに変化して同一人物と思えないという脚本の致命的な欠陥など傑作とは程遠い作品に見える。あまりに脚本がちぐはぐなので、これはわざと突っ込みどころを多くして大勢で盛り上がるパーティー向け映画にしようとした狙いなのかも知れない。
ヒロインは2020年代のスターになることを期待されているジョーイ・キングで、母親の自殺という不幸な子供時代の悪夢に悩まされながら、貧しい家庭環境にめげずにけなげに自転車通学をするクレア(ジョーイ・キング)に街の人々が優しいまなざしで朝のあいさつをするシーンで映画は幕を開ける。それを見ている観客もクレアだけには幸せになってもらいたい、と思わさせられるような美しい場面だった。
ところが、魔法のオルゴールを手に入れると突然クレアはSNSでの人気者になることだけを追求するインスタ映え系女子に成り下がり、周囲の人々が次々に死んでいることにも心動かされない。オープニングのかわいらしい少女はどこに行ってしまったのか、脚本がそうなっているから仕方がない。演じるジョーイ・キングも場面ごとのエモーションに忠実に前後のつながりは無視して戸惑いながらもやり遂げたという印象だった。ヒロインのクレアの学園内での位置もあいまいな所があり、いじめられっ子の割には学園を我が物顔で歩くお金持ち軍団の女王ダーシーに殴りかかったり、突然SNS界のスターになったりする。
同一性が疑わしいのはクレアの父親(ライアン・フィリップ)もそうで、貧しいながらもプライドを持って廃品回収業を営んでいる良い父親だと思ったら、大金が手に入ったとたんになぜかジャズサックスの演奏をするイケメンの激渋オヤジになって身のこなしも気取り始める。
クレアが小学生のころからあこがれる長身ハンサム金髪のポール(ミシェル・スラガート)もSNSにカッコつけた自撮り写真をアップする以外のキャラクター描写がないので、こんなナルシストのボンクラ男に恋するクレアは所詮はそういう女にすぎなかったのか、とすべてが疑わしく思われてくる。今どきの高校生の欲望に忠実に物語を作ったらこうならざるを得なかったということなのかも知れない。
監督はジェームズ・ワンの映画のカメラマンとしてキャリアを重ねてきた人物で『バタフライ・エフェクト2』の監督もしており、全体に『バタフライ・エフェクト』と『ファイナル・デスティネーション』シリーズとをミックスしたような趣もあったが、死亡シーンのキレが悪く、ほとんどギャグコメディにしか見えないのは狙って外したのか、それとも能力の限界なのか、判然としない程度には学園ドラマの骨格はしっかりしており、清潔でていねいなデザインの好ましさもあって、ギャグ要素が強めな学園ホラー映画の新作としてそこそこの楽しさはあった。
父親が拾った中国製のオルゴールに書かれた古代中国文字を読み解き、7つの願いが叶うことを知ったクレアは、彼女をいじめる学園の女王様気取りのダーシー(ジョゼフィン・ラングフォード)が腐ってしまいますように、と恐ろしい願いを口にする。すると、ダーシーは謎の皮膚病に感染し、皮膚がただれて入院してしまう。高校の学科に中国語があり、アメリカの高校生たちが熱心に中国語を学んでいる姿が意外だったが、実際はすでにこれが当たり前の風景なのかも知れない。
クレアに救いの手を差し伸べる中国系のライアン(演じるのは韓国系の若手イケメン俳優キー・ホン・リー)は、願いには血の代償が支払われ、オルゴールの持ち主は最後に死ぬことを見抜いてクレアに恋するあまりに、自分の身を犠牲にしてでもクレアを救おうとするのだった。ライアンが自分に恋していることを知っているクレアはずる賢くそれを利用して自分だけは助かろうとたくらむ。
願いごとの5つ目あたりから、タイムスリップが行われてパラレルワールドの要素が加わり、1度死んだ人間が生き返ったりして、何でもありの世界に突入する。
ラストシーンはオルゴールを抱えたライアンがむごたらしく死んだクレアのよみがえりを実行しそうな続編を期待させる終わり方だった。
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★ 『THE DUFF/ ダメ・ガールが最高の彼女になる方法』
2015年。アメリカ。"THE DUFF",
アリ・サンデル監督。マックG製作。
主人公のビアンカ(メイ・ホイットマン)は、パーティー会場で幼なじみの体育会系美男子ウェスリー(ロビー・アメル)に「お前ってダフ(duff)だよな。」と言われる。「duffって何?」と尋ねると、「ダサい友だちのこと。どのグループにもいるイケてる友だちを引き立たせる添え物の友だちのことだよ、気づいてなかったの?」と言われてしまう。
ビアンカの親友であるキャシー(ビアンカ・サントス)もジェス(スカイラー・サミュエルズ)も学園内のスター的存在であり、ビアンカはそのことを誇りに思ってもいたのだったが、DUFFという新しい概念を導入してみると、すべてが違った風に見えてしまうことにビアンカは深く傷つくのだった。
ホラー映画マニアという悲しいオタク趣味の持ち主であるビアンカは、自分がDuffというカテゴリーに当てはまる存在なのだと自覚する。親友だと思っていたキャシーもジェスも自分の美を輝かせる道具としてビアンカを利用していたに過ぎないのではないか、と何もかもが疑わしく思われてきて、精神的孤立を経験したビアンカは、キャシーとジェスに絶交を宣言し、脱Duffを目指して見当はずれな努力を開始する。
Duffという新概念によってそれまでの人生すべてが違った風に見えてきて、自己同一性の危機に陥る主人公という設定が面白い。主役のメイ・ホイットマンはお笑い系女優の期待の星らしいが、今年30歳になるとは思えない童顔と子ども体型を生かして熱演している。新人俳優のショーケースみたいな学園コメディだったが、ヒロインの母親役で今年のオスカー助演女優賞受賞のアリソン・ジャネイ、ヒロインに有益な助言を与える教師役でケン・チョンが出演している。SNS時代を生きる現代アメリカの高校生(5つか6種類くらいのSNSを駆使して生き延びる道を模索し続ける)の苦難に満ちた生活がうかがい知れる苦い味の青春ラブコメディの佳作。全米初登場第5位と意外にヒットしている。前評判の高さからからリンジー・ローハン主演の『ミーン・ガールズ』みたいな目の覚めるスマッシュヒットを期待したら、学園コメディの不調さを反映したそこそこに良く出来た作品だったが、近年では上質な部類に入ると思われる。
ヒロイン役のメイ・ホイットマンと親友役のビアンカ・サントスとスカイラー・サミュエルズの全員が30歳前後で高校生役にしては老け込んでいるが、気にしてはなるまい。Duffという概念を吹き飛ばすほどの3人の友情の美しさが物語の主題のひとつとなっている。
ビアンカに認識論的切断をもたらした幼なじみの筋肉少年ウェスリーは、理科と数学の成績不振で名門大学へのフットボール推薦が受けられるかどうか難しいラインにいた。それに目を付けたビアンカは彼にイケてる女子になるためのアドバイザーを依頼する。互いを異性と意識しないまま行動をともにするうちに二人の間に不思議な感情が発生していることに気づいてしまうビアンカとウェスリーだった。
フットボール部のスターであるウェスリーを自分の美しさを引き立たせるお飾りにしたい学園の女王マディソン(ベラ・ソーン)がビアンカに陰険な嫌がらせを続ける。クライマックスのホームカミング(秋に行われる高校のイベント)での大逆転でマディソンの女王の座がもろくも崩れ去ってしまうさまが笑いどころになっている。ベラ・ソーンとメイ・ホイットマンは9歳の年齢差がある。
ビアンカ役のオーディションに参加して落選したベラ・ソーンだったが、プロデューサーが彼女を気に入って原作にない役柄を脚本に加筆して参加させた、といういきさつがある。まだ21歳ながら映画プロデューサー、歌手としても活躍するベラ・ソーンは今後が楽しみな人物である。
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★ 『スイッチング・プリンセス』
2018年・アメリカ。"The Princess Switch".
マイク・ロール監督。
ヴァネッサ・ハジェンズ主演で、やがて王妃となる侯爵令嬢とケーキ職人とが容姿が瓜二つだったことから、侯爵令嬢の提案で数日間入れ替わりを経験して見聞を広めようとたくらんだことから引き起こされるドタバタ騒ぎを描いたロマンチック・コメディ。
マーク・トウェイン原作の『王子と乞食』の物語の変奏で、一見してリンジー・ローハン主演の『フォーチュン・クッキー』を連想したが、『フォーチュン・クッキー』みたいな素晴らしい作品と比較するのは酷だろう。かなりいい線いっているが、『フォーチュン・クッキー』みたいに永く語り継がれる作品にはならないだろう。ただし、Netflixのオリジナル映画としては、コーエン兄弟の『バスターのバラード』に勝るとも引けは取らないくらいの高品質は保たれている、と思ったが、多くの人は「そんな馬鹿な・・」というかも知れない。
Netflixオリジナルの連続ドラマ、『ストレンジャー・シングス』、『マインドハンター』、『13の理由』、『ブラック・ミラー』、『マスター・オブ・ゼロ』、『ル・シャレー離された13人』、『GET DOWN』、などに取りつかれて今年は完全にNetflix依存症と化したが、一方でオリジナルの映画にはがっかりさせられることの方が多い、そう思い込み始めたところに、この『スイッチング・プリンセス』が登場して、何だ、やればできるじゃないか。と一安心したことだった。Netflixオリジナル映画作品の中では久々の優良作品の部類に入る、と思われる。
冒頭で登場する主人公、ヴァネッサ・ハジェンズの姿かたちを見て、「この地味なおばさんは何者だ?」と思ってしまいがちだが、そうではないはずだ。
この老け込んで全盛期の輝き、『ハイスクール・ミュージカル』で一世を風靡した頃の光輝く存在を見事に失った中年女性の姿こそがこの作品のメッセージであるのだろう。若さに依存する美しさは数年か数か月で消滅してしまうはかないものに過ぎない。一見地味なおばさんに成り下がったかに見えるヴァネッサ嬢だが、その場面がボトムで、そこからヴァネッサ嬢の女優としての、人間としての魅力が徐々に明らかにされていくのを観客は眼にして、「そうか、歳はとってもヴァネッサ嬢はやはりチャーミングな魅力を維持しているようだ。」と考える。演出も精いっぱいそういう方向に観客を誘導しようとがんばっている。
相手役の王子様を演じるサム・パラディオも高貴な物腰と顔の創りでヴァネッサ嬢の熱演を補完している。
アン・ハサウェイ主演の『プリティ・プリンセス』と同じ程度には楽しく面白い作品にはなっていたような気がする。どちらにしろ、Netflixオリジナルの映画で愉快で面白い時間を過ごすことが出来たことに感謝したい心持ちで、クリスマス前の時期に暖かい部屋でのんびり見るには最適な作品だった。
どう転んでもヴァネッサ・ハジェンズに王妃の役柄は無理があるようだったが、次第にそれなりの高貴な雰囲気が備わってきたような印象もあるので、結局誰でも衣装とメイクと演出でどうにでもなるのだろう。ギャグは頻繁に挿入されてはいたが、あまりおかしくなかった。使い古された紋切り型のギャグばかりだったからだろう。しかし、何かちぐはぐな感じや、脚本の適当な投げやり具合などに全体に意図せざるおかしみのようなものが漂っていて、面白みはあった。
王子役のサム・パラディオは長身と身のこなしの洗練された雰囲気、堅物のキャラクターなどで、いかにも小国の王子様の役柄にはまっていて感じがよかった。ヴァネッサ嬢のケーキ作りのパートナー、ケヴィン役のニック・サガルも押し出しが良くて有望新人かも知れない。ケヴィンの娘役のアレクサ・アデサン(Alexa Adeosun)が可愛らしくこましゃくれていて、物語の緩衝材の役割を果たしている。
マーガレット妃の教育係的なドナテリ夫人(スアンヌ・ブラウン)とヴァネッサ嬢の入れ替わりの秘密を暴こうと奮闘するフランク(マーク・フレイスチマン)とも面白いキャラクターになりそうだったが、描写の物足りなさ(おそらくエピソードを大幅にカットされてしまったのだろう)のせいで、中途半端な存在のままに退場してしまった。
面白くなりそうで、どこか中途半端で隔靴掻痒の気配はあるものの、こんなものかな、と割り切ってみる分にはちょうど良い作品で、真剣に見なくてもいいよ、時間が空いた時のひまつぶしにご覧下さいというNetflixの基本的な概念にこれほどふさわしい映画はないかも知れない。
★ 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
2019年。アメリカ。"Once Upon A Time In Hollywood".
クエンティン・タランティーノ監督・脚本。
タランティーノがシャロン・テート事件を映画化すると知った時には、アメリカ版『実録・連合赤軍』みたいなものになるのか、オリバー・ストーンかスコセッシあたりが取り扱いそうな題材でタランティーノには違和感がある、と思っていたら、マンソン・ファミリーがまさかのコメディ・リリーフとして扱われ、レオナルド・ディカプリオ(以後ディカプーと省略)演じる架空の俳優リック・ダルトンのみじめな敗北者の人生を慈愛に満ちたまなざしで描くことに重点が置かれており、タランティーノの最高傑作は『ジャッキー・ブラウン』だと思い込んでいる者にとっては、最高傑作が更新されたうれしい誤算となる映画だった。
『ジャッキー・ブラウン』での最もエモーショナルな場面、ブラッドストーンの「ナチュラル・ハイ」が流れる中をパム・グリアがロバート・フォスターに向かってゆっくりと歩み寄ってくる場面に匹敵する、しっとりと情感豊かな場面がこの映画にもあった。
イタリアへの出稼ぎ仕事から帰国する場面で、スターとしての輝きをすでに失ったディカプーの表情を映し出しながら、ローリング・ストーンズの「アウト・オブ・タイム」が流れる。時代に取り残された男の哀しみを優しく見つめるタランティーノの視線に寄りそうような旋律の美しい場面だった。オリジナルとは異なる、より哀し気なクリス・ファーロウのカバー版の演奏にミック・ジャガーが声を乗せたものが効果的に響いていた。ブルーアイド・ソウルそのものの上手な歌手であるクリス・ファーロウの哀感に満ちた声を使わず、あえてミック・ジャガーの薄っぺらな破れた声を使うところにタランティーノの選曲の意図があるのだろう。1969年と言えばローリング・ストーンズの「オルタモントの悲劇」の年でもあり、シャロン・テート事件と同様に世界に暗い影を落としたメレディス・ハンター事件の関係者であるストーンズの音楽を使う点に意味があったのかも知れない。
この場面に漂う哀しみの深さはタランティーノが過去の映画の過剰な知識を総動員して創りあげた架空の俳優リック・ダルトンの人生に、タランティーノ自身が感じているであろう自分も「時代遅れの人物」の一人だという自覚から生じているのかも知れない。もはや自分の映画を喜んで見てくれるのは年寄りだけだ、若者はシャロン・テートの映画を見たことがないし、マカロニ西部劇にも興味を示さない、そもそもシャロン・テートの名前さえグーグルで検索して初めて知るほどの状態なのだ、そのような断絶にある種のあきらめ、絶望を感じて今後はプロデュース業に専念しようと考えているのかも知れない、リック・ダルトンとブラッド・ピット演じるクリフ・ブースという歴史の掃きだめの中へ消え去ったキャラクターへの思い入れの度合が過剰に大きいだけにそんなことを想像してしまう。
音楽の使い方に感銘を受ける場面はいくつかあって、音楽だけ素晴らしい映画として悪名高い『いちご白書』の主題歌、バフィ・セント・マリーの「サークル・ゲーム」(ジョニ・ミッチェルのカバー)が『いちご白書』から解放されてシャロン・テートのドライブ場面を輝かせる音楽として機能している瞬間には、画面も音楽も観客も映画館全部が幸福に包まれているような錯覚を感じるほどだった。
古臭いハードロックバンドだという固定観念しかなかったディープ・パープルの「ハッシュ」という曲が、ポランスキーとシャロン・テートがパーティー会場へドライブする場面で、当時ハリウッドでもっとも光り輝く存在だった二人をより輝かしいものとして演出する曲として見事に使われていた。こんなファンキーでソウルのある曲を演奏するバンドだったのか、という驚きがあった。
1969年に遅れて生まれてしまった、という1969年コンプレックスをタランティーノなりに昇華した映画ととらえることも出来る。ラブ&ピースを身近で目撃した、あるいは身近な家族の誰かもヒッピー運動に感化されていたかも知れないタランティーノにとっては他と違う感慨もあるのだろう。
20世紀末までの紀伊国屋書店などの大きな本屋のニュージャーナリズムっぽい翻訳本が集められた一画には、草思社の『ファミリー』というエド・サンダースという詩人が取材した、白地に赤の禍々しいイメージの表紙の本が必ず置いてあった記憶がある。「シャロン・テート殺人事件」という副題のその本や、同じ草思社の『ぼくらを撃つな』というアメリカのヒッピーや学生運動に取材した本などによって、あの時代に青春を過ごすとは特別なことであるに違いない、いや、あんな混乱した時期に生きていなくて良かった、という矛盾した感情、どちらにしろ羨ましいと思うなどの1969年コンプレックスに二十歳前後の一時期に取りつかれていた記憶がある。
マーゴット・ロビーが演じるシャロン・テートの愛らしい仕草をていねいに描いていく様子を見ながら、シャロン・テートなんて『哀愁の花びら』や『ポランスキーの吸血鬼』で見たはずだが大して記憶にない俳優に過ぎない、殺人事件に便乗した『ワイルド・パーティー』のほうが面白かった、という自分のような浅はかな映画ファンとはちょっとレベルが違うようだ、と思った。
ここまで思い入れを込めて描くタランティーノとは、どこまで映画に取りつかれているのか、あるいはアメリカの映画マニアにとっては忘れがたい俳優なのか、アメリカ人でもシャロン・テートの名前はチャールズ・マンソンを連想させる怖ろしい名前だという認識が一般的なはずだが、この映画は過去のゴシップ記事からシャロン・テートという名前を解放しようとする試みでもあり、その演出の身振りがけなげで優しさに満ちたものだったせいで好意的に受け止められたのだろう。
この映画の登場人物には、実在の人物にも架空の人物にも総じて穏やかで優しいまなざしが注がれているようだ。ファミリーに対してさえも優しいように見える。2020年代のスターになりそうな新人俳優が多数参加しているせいなのかも知れないが、牧場での場面や街を徘徊する場面はホラーな演出で統一されているものの、合衆国を震撼させた事件の容疑者を描くにしては眼差しが優しい印象がある。後にフォード大統領暗殺未遂事件を引き起こすリネット・フラムを演じるダコタ・ファニングにも相応の見せ場は用意されていた。優しいと言うよりタランティーノのファミリーやマンソンに対する興味のなさを反映した投げやりな適当さが優しさに見えただけかもしれない。
これがファンタジー映画に過ぎないと思い知らされるラストシーンの哀切は素晴らしかった。物語を情感を込めてしっとりと語ろうと努力するタランティーノのメロドラマ演出が『ジャッキー・ブラウン』に続いて最大限に発揮された場面だった。トッド・ヘインズみたいにメロドラマを真正面から語るタランティーノ映画を見てみたくもなった。物語を上手に語る技術を持ってはいない、そういうタイプとは正反対の志向の作家だとみなされがちなタランティーノだが、『ジャッキー・ブラウン』とこの映画を見る限り素晴らしい物語作家だという気がする。報われない愛に苦しむ人々への共感が演出の手つきから垣間見えるからである。
良い映画を見た、と感動していたが、Netflixで『マインド・ハンター』のシーズン2を見てしまったら、禍々しい事件を禍々しく描くさまに打ちのめされて映画の感動は薄らいでしまった。第5話に出てくるチャールズ・マンソンの刑務所での面会場面はすごかった。マンソンを演じるデイモン・ヘリマンは『ワンス・アポン・・』でもマンソンを演じていた俳優だった。殺人事件の中心だったテックス・ワトソンも登場するが映画でのイメージとは大きく異なっている。
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★ 『タイニー・ファニチャー』
2010年。アメリカ。"TINY FURNITURE".
レナ・ダナム監督・脚本・製作・主演。
大学を卒業したレナ・ダナムが高名な写真家の母(ローリー・シモンズ)と画家の父(キャロル・ダナム)に6万ドルの製作費を出資してもらい、家族や友人、知人に協力を依頼して作ったマンブルコアに影響を受けた自主映画。
レナ・ダナムを初めて認識したのはSNLのミニコント集みたいなクリップをYouTubeで見たときだが、当初から苦手な感じがあった。顔をひと目見てうかがわれる性悪さ、腕の刺青も怖ろしいイメージと、迂闊に話しかけると噛みつかれそうな印象がある。
しかし、尊敬する作家や批評家がこぞって今もっとも注目するべきはレナ・ダナムしかいないと繰り返し書いたり語ったりするので見なければ、という強迫観念に捕われていた。
レナ・ダナムの性格の悪さは群を抜いており、平気で嘘をつくし、自分の欠点を指摘されると逆切れして、誰かれ構わず当たり散らす。しかし、演出家はレナ・ダナム本人だということを忘れがちになるほどにレナ・ダナムのキャラクターの性悪さはずば抜けている。脚本もレナ・ダナム本人が書いている、つまり自分自身をクールに分析する能力を持ち合わせている。
レナ・ダナムのキャラクターが余りにいやな人物で反省した振りはするものの、振りだけなので同情の余地もない。妹(作家・LGBT活動家のサイラス・グレース・ダナム)や母親のキャラクターにも特に心惹かれる要素はない。誰にも感情移入できない物語だが、これがとてつもなく面白い。
この映画を作った時のレナ・ダナムは24歳で、そのことには驚きしかない。自分の身を切り裂いて、生々しい血を流しながら語るようなレナ・ダナムの物語の率直さには心を揺さぶられる。日本の私小説みたいに家族や友人たちを巻き込んでしまってトラブルに発展しそうな要素もある。
ここまでやる勇気と度胸、覚悟を持った唯一者であるレナ・ダナムの物語に匹敵するものが他にあるのか、と考えてもすぐには思いつかない。サラ・ポーリーの『物語る私たち』は匹敵するかも知れない。
アメリカでは大学を卒業して実家に戻るということが負け犬であることを意味する、ということを知り、まあそりゃそうか、それがノーマルな感覚だ、と元パラサイト族の私は思った。
撮影はレナ・ダナムのニューヨークの実家を使って行われており、NYのセレブリティの生活を垣間見ることができる。いい年齢をして当てもなく実家に戻ってきたレナ・ダナムの悪戦苦闘する姿を描いたコメディ調の青春残酷物語。
隠し事は何もない。24歳当時のレナ・ダナムの欲望が率直に語られている。時給の低い仕事なんて嫌だ、映像メディアで脚光を浴びて両親みたいにお金持ちになりたい、自由なセックスを手に入れたい。周囲からレスペクトされる存在になりたい、
しかし家族や周囲の人々は彼女を軽視してぞんざいに扱う、ネットに投稿した学生時代の自主製作ビデオには辛らつで否定的なコメントしかない、知り合った男とのセックスは路上のマンホールの中で散漫に行われる。
かつてヒッピーでフリーセックス主義者であったらしい母親が20歳の頃に書いていた日記を発見したレナが母親にマッサージをしながら語りかける場面で映画はちょうど良い按配に幕を下ろす。
この作品は『GIRLS/ガールズ』のプロトタイプのようなものだろう。セックス描写の痛々しさと生々しさに閉口して第4話あたりで見るのを中断している『ガールズ』を見直すことにしようと思った。
★ 『白い暴動』
2019年。イギリス。"White Riot".
ルビカ・シャー監督。
1978年のロック・アゲインスト・レイシズム(RAR)の集会について関係者へのインタビューや、当時の記録フィルム、ニュース映像などを基につなぎ合わせたドキュメンタリー映画。コロナの影響で劇場公開が中止となり配信サービスでの提供に切り替えられた。
配給する側の思惑としては当時の若者たちの姿を通して、権力に反逆して社会を変えていく主体はあなたがた若者たちであるというメッセージを伝達したいのだろう。すでに若者ではなく非パンク的な人生を歩んできた私には居心地の悪い感じだが、もともと日本で一般的に流通しているパンクのイメージは好きではない。逆にこの映画で打ち倒すべき敵とみなされている右翼団体ナショナル・フロント(国民戦線、NF)の若者が好んで着ていたフレッドペリーのポロシャツやロンズデールのシャツなどを愛用してきた。私が愛するのは1977年から1979年あたりまでの「オリジナル・UKパンク」の音に限る。
関係者へのインタビューを通して1978年の英国人の生活実態がおぼろげながらも浮かび上がる。英国で勃興していた排外主義の動き、特にNFが若者たちに支持されていく傾向に危機感を抱いた左翼のデザイナー、写真家、雑誌記者、印刷工たちが結成したRARの反撃が1978年の集会で勝利を収める。ネットやソーシャルメディアが存在しなかった時代にどう闘ったのか、それは各所で配布されるファンジンや街中に張られたポスターなどに頼っており、デザイナーの影響力の大きさがうかがわれる。
これを見ると、自分の抱いているパンクのイメージと、実際の情況との差異の大きさを思い知らされる。パンクの理想化されたイメージとは程遠く、現実にはパンクは局所的な文化運動に過ぎない。パンクにかぶれた若者たちの大半は経済不況の中でフラストレーションのはけ口を求めるスラッカー的な教養の乏しい失業者だった。今日の我々が知っているパンクのイメージを担当したのはすでに若者ではないマルクス主義のアーチストやジャーナリストで、彼らが影響されていた1960年代からの芸術運動の流れがデザインに反映していただけのことだった。
1978年のRAR集会のトリを務めたのはパンクの流れの中から登場はしたものの、音自体は古いロックのトム・ロビンソン・バンドだった。トム・ロビンソンだけが唯一の本物の左翼であったためだが、それに不満を抱いていたらしきザ・クラッシュのエピソードには笑える。中で良いギターの音を聞かせていたダニー・クストウという人が昨年病気で亡くなっている。
先進的な左翼のイメージがあったザ・クラッシュも政治的には曖昧なところのあるバンドだったことがうかがわれる。そのためかNFの若者たちにも好かれていた。ベーシストは常にNFっぽい服を着ているし、湾岸戦争時にはアメリカ海兵隊に愛聴されたり解散前のシングル「ジス・イズ・イングランド」が右翼の若者たちの間でアンセムとして受け取られるなど日本にいると理解できない疑問が少し解消された。クラッシュの中で左翼的だったのはマネージャーのバニー・ローズで、それに感化されたボブ・ディランかぶれでヒッピーに劣等感を持つリーダーのジョー・ストラマーが西ドイツ赤軍や赤い旅団に関して現在では考えられない程ナイーブな発言を残している。
パンクも今やレコードコレクターの収集対象になっており、コレクター向けの本も複数出版されている。オリジナルのパンクの音を追い求めて、YouTubeやSpotfyなどをさまよい続けて、時間の経つのを忘れてしまうことが時々ある。当時の録音環境や実際に音楽を作る若者たちの音楽的教養の限界でどのバンドも似たり寄ったりの音でしかないのだが、ザ・フーやスモール・フェイセズその他に似たり寄ったりの音の中の微妙な感触の違いにわくわくするのだ。そもそもパンクは、音楽の知識や教養などどうでもいい、とにかく始めようという運動だった。シングルを数枚出して消えてしまった名前も知らなかったバンドをYouTubeで発見したときは興奮する。オリジナルパンクの中ではザ・クラッシュのファーストアルバムの中にある叙情と郷愁の感覚には心惹かれる。これはおそらく、近年の英国の若者を中心にした山下達郎や竹内まりやなどの1970年代のジャパニーズ・シティ・ポップのブームと同様にどこにも存在しない架空の都市への憧憬から来る現実逃避のファンタジーみたいなものなのだろう。
UKやアイルランドのパンクの曲は英語が理解できないせいでストレートに歌詞の意味が伝わらない点も大きい。実際は大したことは歌っていないのは明らかなのだが、直接には伝わらないせいで何処にも存在しないアスファルト・ジャングルの都市のイメージが詩的に増幅される効果がある。
パンクは女性の社会的地位向上を先鋭的に唱えた運動でもあった。ペネトレイションやX-RAYスペックス、ザ・スリッツ、スージー&ザ・バンシーズその他女性がフロントを務める、あるいは女性だけで構成されたバンドの音には後のニューウェイブやポストパンクにつながる要素が早くから含まれているような印象がある。今聴いても面白いのは女性が中心のバンドばかりな気がする。
★ 『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』
2020年。アメリカ。"Half Of It".
アリス・ウー監督・脚本・製作。
田舎町の高校を舞台に、孤独な中国人少女とアメフト部員の少年と学園のスター的な美女との心の交流を描いた教養小説形式のロマンチック・コメディ。
監督自身のパーソナルな体験を形象化した物語だが、生々しさは奥に引っ込めて、古典戯曲の『シラノ・ド・ベルジュラック』の骨格を援用したドラマに、LGBTと人種差別問題を上手に溶かし込んである。
リベラルアーツ教育の豊かさを見せつけるように、ジャン=ポール・サルトルやプラトン、カズオ・イシグロ、ヴィム・ヴェンダースなどの作品が物語を推し進める起爆剤として自然に生きている。
シェイクスピアの『十二夜』を学園コメディに援用したアマンダ・バインズ(懐かしい!)主演の『アメリカン・ピーチパイ』を想い出した。ナサニエル。ホーソンの『緋文字』を取り入れたエマ・ストーン主演の『小悪魔はなぜモテる?』もあった。
しかしこのドラマには『アメリカン・ピーチパイ』みたいな楽しさや面白おかしさはほとんどない。
かわりに人が誰かに恋するときのひりひりする感情の揺れ動きがていねいにとらえられている。主人公以外は当初は学園コメディの典型的なキャラクターに見えていたが、アメフト部員のポールや学園の女王アスターの心の屈託が明らかにされる後半には、学園コメディはとりあえずの手段でしかなかったのだな、と気づいて主人公エリーの感情教育の物語を我がことのように噛みしめる、という仕組みになっている。
ポールとアスターそれぞれの物語については物足りなさや矛盾点は残るものの、恋愛映画の中で愛する人を追いかけて男が列車に並走して走り続ける場面をあざ笑っていたエリーが、最後に同じ場面の主人公になってしまったときに自分自身の感情をつかみ取ることに成功するというこじゃれた終わり方で、まあいいかという気分になる。
今月ネットフリックスで配信が始まったドラマだが、すでにYouTubeにはこのドラマを見て感激した10代女子たちが、この感動を誰かに伝えたいと泣きながら語りかける映像が無数にアップされ続けているという異常事態が起こっている。『13の理由』のハンナ・ベイカー・ムーブメント、『ストレンジャー・シングス』の「ホッパー署長は生きている」騒動以来の大騒ぎだが、何が十代女子たちの心の琴線に触れたのか、主人公はLGBTの中国人少女というマイノリティなのに自分のことのように思わせる何かがあるのか、よくわからないが、近年の学園コメディの中では相当に上質の部類に入ると思われるので満足したことだった。
成績優秀だが孤独な中国人少女エリー(リーア・ルイス)は、周囲に心を閉ざして生きている。ある時、アメフト部員のポール(ダニエル・ディーマー)に、学園の女王アスター(アレクシス・レミール)に恋したのでラブレターの代筆をしてくれと依頼される。自らもアスターに恋していたエリーは断ろうとするが、電気代の支払期限が迫っているため仕方なく引き受ける。それから代筆のラブレターをめぐって三人の心のもつれが描かれていく学園コメディ。
学園の女王アスターの心の揺れがいまひとつ理解できない。そもそも現実に学園の女王的な人と親しく接したことがないのでよくわからないのだろう。
高校時代に学園の女王とみなされる人がいる、というシステムの不可思議さについて考えてみることがあった。学園という閉ざされた環境の中での複雑に入り組んだ人間関係の中から女王、誰もが憧れる人物が屹立する。
卒業したとたんに崩壊する脆いシステムの上の任意の一点に過ぎない存在だったが、卒業してしばらく経過したときにふと思い出すことがあった。あの人は今どこで何をしているのだろうと思って同級生に再会したときに尋ねると、卒業後も地元にとどまり、そこで結婚して子どもも二人いるという。
それを聞いた時には、何てもったいない、高校時代は無限の可能性を感じさせて光り輝く美女だったのに、東京に行って第一級のスターになるべき存在だったのではないのか、などと思ったものだったが、このドラマを見ながら、年寄りになりつつある今なら理解できると思った。誰かに向かって愛して、誰かから愛される、そのことの重要性に早い段階で気づいた彼女はやはり彼女自身の人生の勝利者、スーパースターそのものだった。
★ 『呪怨:呪いの家』
2020年。Netflix."JUON ORIGINS".
三宅唱監督。高橋洋脚本、
これは映画ではなく、連続ドラマの体を為しているものの、ブツ切りにされた180分弱の映画だとして鑑賞することも可能だった。
荒川良々が演じる小田島の調査報告の記録という側面もあるが、この作品の基調を創りあげているのは1980年代から1990年代を生きた河合聖美(里々佳)の青春物語だろう。
物語はつじつまが合っていなかったり、キャラクターの自己同一性が疑わしく思われたり、実在の事件に接続する手つきが安直だったりと、優れた出来とは到底言い難いクオリティでしかないのだが、それはすべて脚本のダメさに由来する。
『きみの鳥はうたえる』という、日本映画だとは信じられない程の素晴らしい映画を創った三宅唱監督の演出が、ダメな脚本によって、より一層光り輝いて見えてくる。
悪いクラスメイトの策略によって。聖美がレイプされてしまうというエピソードの心なさは惨たらしい。
しかし、同時にあの時代に学生として生きていた私たちの心の痛みを呼び起こす効果もあった。学生時代に〇〇が妊娠したらしい、誰彼にレイプされた、輪姦された、といった真偽の定かでない噂は、童貞の過剰な想像力によって男子生徒間では高速度で拡散していた。
密かに憧れていた少女がレイプされたという噂を耳にした途端に、それまでは軽口をたたき合うほどには仲良しだったものが、根拠のない潔癖症のせいか、会話を避けるようになったという残虐な経験があった。
噂の当事者にさせられた女子は孤立した存在となりフェイドアウトしていき、後には誰もその後の消息を知らないという事態になることがあった。周囲から排除されたことを自覚した少女の絶望的に暗い瞳の色が忘れがたく、現在も記憶につきまとって離れない。再会することが可能なら、あの時の自分の幼稚さ、排除の身振りを実行した犯罪者であったことを懺悔したい、という想いで息が苦しくなった。
物語は聖美の地獄めぐりの旅路による青春残酷物語として語られていき、これが一応はホラー作品であることを忘れがちになるほどに、ホラーの演出にはあまり冴えた部分は見られなかった。
女性のキャラクターに対する扱いが酷いように見えて、わずかながらも救いは用意されてもいる。
第2話で、聖美をレイプさせるように仕向けた当事者である芳恵(大和田南那)がディスコの闇に消え去る場面、切ない系ダンス曲のAmandaBの、"THIS WAS MEANT TO BE"という聴いたこともない曲の哀切な旋律の中で、芳恵が先に彼岸へ旅立った真衣(葉月ひとみ)の霊に向かって、「ごめんね。」とつぶやく。
ここで芳恵と真衣とは、ただの悪役から、悲劇的な青春ドラマの登場人物へと大きく跳躍している。
しかし、問題は河合聖美という物語の登場人物の取り扱いにある。
1980年代後半から1990年代にかけて、浮かれ騒いでいた時期であったが、実際は何も楽しいことなどなかった。さまざまな面での圧力の大きさによるつらさ、恋愛のうまくいかなさから来る女性不振、他の誰彼と比較して自分にふさわしい立場が得られていないのではないかという自意識を持て余した感覚、バブル時期を懐古する風潮もあるが、二度と戻りたくないどころか思い出したくもない時代である。
バブル経済などもあったが、1980年代後期から2000年前夜までは総じて暗い時代であった、という河合聖美の物語の総括は自分自身の切実な経験にも符合するところが少なくない。
聖美の肉体に仮託された1990年前後の物語だという風に見れば、三宅唱監督の叙情的な演出が冴える、ホラー風味の青春ドラマ、ただし残虐を極めるという非常に面白く見ることが出来た作品だった。
知っている俳優が少ないが、それぞれに無駄に力が入っていない自然な演技で物語の殺伐として乾いた感触を際立たせていたように映った。小田島役の荒川良々と聖美役の里々佳との二人は熱演だった。当時の風俗、髪形や衣類への繊細なこだわりもドラマを格調高い高品質なものにしていた。