2013年。イタリア。"La Migliore Offerta".
ジュゼッペ・トルナトーレ監督・脚本。エンニオ・モリコーネ音楽。
ジェフリー・ラッシュとジム・スタージェスとの組み合わせを見た時点で物語の結末とそこに至る流れが判明してしまう、というのはキャスティングのミスにも見えるが、
ジェフリー・ラッシュが高慢な美術鑑定士として登場してきた姿を見れば、ジェフリー・ラッシュという俳優のこれまでの歩みを知らなくても、「この男が詐欺に引っかかって破滅する物語なのだな。」ということは想像できるので謎解きミステリーの部分には重点が置かれていない映画だったが、
この映画の最大のチャームポイントだったはずのエンニオ・モリコーネの音楽が印象に残らなかったのは変だった。
ジェフリー・ラッシュの顔芸と成りきり演技に注意を奪われていたせいだろう、と思って納得しようとしても居心地が悪い。ジェフリー・ラッシュという俳優には香川照之と共通するうっとうしさがあって好きにはなれない。
高齢になり創作する力が衰えたというわけでもなさそうなのはインタビュー記事などを読むとわかる。未だに『続・夕陽のガンマン』の衝撃によってエンニオ・モリコーネをポップ音楽の旗手だと思い込んでいる自分の頭の柔軟性のなさに原因があったと理解するまでに時間がかかった。
それくらいジェフリー・ラッシュとジム・スタージェスとの組み合わせには面白味があった。
この映画によく似たものを見たことがあるような気がしたら、ジョン・カーペンターの『世界の終わり』(シガレット・バーンズ)という短編映画だった。映画はコレクションする値打ちのある芸術品とは認められていないので映画鑑定士という職業は成立しないが、『世界の終わり』には珍しく映画のフィルム自体に愛着を抱く大富豪(ウド・キア)が登場してシッチェス映画祭で一度だけ上映された幻の映画を追い求める様子が描かれていた。
その場の思いつきで作ったような『世界の終わり』と比べて、『鑑定士と顔のない依頼人』がすぐれているとは思えないのはどこに違いがあるのだろう。
しょぼいセットで作られ、いい加減で投げやりな終わり方をする『世界の終わり』はケーブルテレビ専用の企画か何かで映画ですらないのに、それに及ばないのはやはりウド・キアとジェフリー・ラッシュの俳優キャリアの違いが大きいのかも知れない。
最近は安売り傾向が目立つにしても、ウド・キアにはアンディ・ウォーホール人脈から登場したという肩書が今でも市場では重宝されており、謎に満ちた私生活(変態すぎるので表に出せないという理由があるようだ)も神秘的な雰囲気を高めている。
一方のジェフリー・ラッシュには謎めいたところはまるでなく、演じることへの偏執狂的なこだわりとプライドの高さが唯一の商品価値だというのもうっとうしい。
そんなうっとうしいジェフリー・ラッシュが『スティング』みたいな集団での詐欺に引っかかり、地獄に堕ちるまでの物語には痛快さもある。
この痛快さは何かに似ている、『半沢直樹』第一部の大阪編の痛快さに似ていた。しかし、ジェフリー・ラッシュのうっとうしさは第二部東京編で香川照之が演じていた大和田常務のうっとうしさにつながる部分もあったので、結局のところ大した映画ではなかったな、という感想に落ち着いてしまう。
しかし、ジム・スタージェスとジェフリー・ラッシュとの組み合わせは素晴らしかった。別に演技派俳優という肩書きなんていらないよ、という姿勢を崩さないジム・スタージェスの前で、長年演技することをストイックに追求してきたジェフリー・ラッシュがむごたらしい敗北を味わう場面には、切なさは感じなかったが面白味はあった。
IMDb
公式サイト(日本)
この映画が大したことない、と思えてしまう最大の原因はやはり謎の女を演じるシルヴィア・フークスという女優の華のなさ、魅力の乏しさにあるようだ。
想えばジュゼッペ・トルナトーレ監督の女優を選ぶセンスのなさは『ニュー・シネマ・パラダイス』の頃から一貫しており、思い出そうとしても顔が思い出せない女優ばかりを起用してきたようだった。